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フィナーレ(下)「ブレクファスト・イン・アメリカ」 [epilogue]

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 「ブレックファスト・イン・アメリカ」

 これも、もの凄く想い出のある歌だ。

 当時、僕は高校3年生で、この曲を毎日のように聴いていた。

 歌詞を訳してみると、
 
 「いつか、憧れのハリウッドに行きたい」

 というような歌詞。僕の憧れを言葉にしたような歌だった。

 「でも、その思いが本当に叶うのか?」 

 17歳の僕は見えない未来を、毎日のように想像した。

 結局、23歳でLAに留学。

 USCの映画科で学び。帰国して7年かかって監督になった。

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 「夢を実現したんだね!」

 と言われれば、そうかもしれないが、

 失ったものの数々を考えれば、素直にハッピーとはいい辛い。

 そんな未来を知らない17歳の僕は、その歌を聴いていた。

 でも、まさか、その歌を今、

 ここで聴こうとは思わなかった。

 それもハリウッドで・・。

 やはり、長い長い物語が終わろうとしている・・。

 そのラスト・ソングがこれなのだ。

 映画のラストシーンを見ているかのよう。
 
 選曲した人がいるとすれば、見事。

 そう思っているとfumiさん

 買い物を済ませて戻って来た。

 いよいよ、LAともお別れ・・。

 あとは、ロスアンゼルス国際空港へ向かうだけだ・・。

 (つづく)

 

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フィナーレ(中)時代の風、時の流れ [epilogue]

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 僕は理屈っぽいが、

 ある意味で運命論者のようなところがある。

 「お告げ」とか「神の声」というのではない。

 時代の風とか、時の流れがあり、運命もまた存在すること

 偶然というのはない。そこに何かの「掲示」があると解釈する。

 今回の映画祭もそうだ。

 ヨーロッパでも、アジアでも、ニューヨークでもなく

 ロスアンゼルスであったこと。

 それも会場がリトル東京で

 「プリンス・オブ・ダークネス」のロケ地

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 そこで長年の夢が叶った・・

 「アメリカ人からも拍手喝采される映画を作りたい」

 そんな夢が叶った。

 運命的としかいいようがない・・。

 そして、ここハリウッドで、最後の最後に

 「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」

 を聴くことにも意味があるはず。

 そう思っていると、次の曲がなんと・・

 とどめだ・・。

 (つづく)


 

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フィナーレ(上)「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」 [epilogue]

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 最終日にもう一度ハリウッドへ

 買い忘れた土産があったのだ。

 「あと忘れている物はないな・・」と店内を歩いていると、

 流れているBGM

 聞き覚えのある曲になった・・。

 あ・・・・

 ハリウッドのみやげ物屋・・・聴こえて来たのは・・

 ピンクフロイドの

 「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」

 ミチルが一番好きな歌であり

 真子たちのテーマでもある。

 店の中で動けなくなり、曲に聴き入った。

 涙が溢れそうになる。

 最終日に、あとは空港へ行くだけという日
 
 それもハリウッドで、この歌を聴くなんて・・。

 「青い青い空」のテーマと交差する歌詞。

 その映画を作るために4年かかった。

 本当に長い月日・・。

 そして今回のLA上映。

 長い長い物語が終わろうとしている。

 それを実感していただけに

 その歌はフィナーレのように思える。

 ふと、外を見れば、ハリウッドブルーバードを

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 真子やみさとたちが、
 
 三美子、トン子、ミチル。

 そして、デビーや八代先生たちが

 大会で書き上げた大きな書を掲げて、行進しているような

 通りを歩く多くの人たちから、拍手喝采を浴びて

 行進しているような気がした・・。

 (つづく)
 
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時代は変る(4ー終)/次の目標は何か・・ [epilogue]

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 車を走らせながら、LAの街を見つめる。

 強い日差しの中、流れ行く風景を見つめ、思い出す。

 横浜時代。仲のいい友人と共に

 映画監督デビューをめざして、自主映画活動をしていた。

 青春時代と言える日々。
 
 でも、それを終わらせ、友人たちに別れを告げLAに留学した。

 本当はいつまでも彼らと、一緒にいたかったのだが

 10年先を考えると、次のステップに進まねば・・と思えた。

 LAに行ってからは余計に、友人たちのありがたさが分かり

 「あのまま日本にいれば、良かったのかも・・」
 
 何度もそう考えた・・

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 LA留学を終え、帰国したときも同じ

 「あのままLAにいれば・・・こんな思いをすることもなかったのに・・」

 何度もそう思った。

 でも、個人の思いとは別に、大きな時代の波が訪れる。

 それを乗り越えるには、

 次のステップに、上がらなければならない。

 しばらくは苦しくて後悔するが、

 必ず、それが正しかったことを実感する。

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 今、また、そういう時代が来たのではないか?

 時代がまた、変ろうとしている。

 これは数年前から感じていたこと。

 だが、次なるステップが何なのか? まだ分からない。

 マラソンでいえば、東京マラソンが終わった。

 次はホノルル・マラソンだ。そんな感じだろう。

 でも、次はどのマラソンに出るべきか? まだ分からない。

 順等に考えると、次の目標は
 
 「海外の有名映画祭で賞をもらう」

 でも、あまり興味ない。賞をもらうために映画を作るのではない。

 「ハラハラ、ドキドキし、感動する映画を作る」
 
 これは目標ではなく、モットー。すでに実践している。

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 「全米で上映される映画を作る」

 それは「目標」ではなく「結果」だ。

 いい映画を作った。注目された。全米で上映された。

 それは結果であり、目標ではない。

 では、次に向かう場所はどこなのか?

 もしかしたら、それは映画以外の何かなのか?

 大きなことではなく、個人的なことなのか?

 今までもそうだ。それらは決めるというより

 自然決まって来ることが多い。

 まだ、時間が必要のようだ・・。

 

 (つづく)

 
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時代は変る(3)長い物語のゴール [epilogue]

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 僕は人生を物語のように、チャプターに分けて考える。

 映画「人間の条件」や「仁義なき戦い」シリーズのように。

 第一部***篇とか、区切って考える。

 第一部 高校篇 1977〜

 第二部 ヨコハマ篇 1980〜

 第三部 LA篇 1985〜

 第四部 東京立志編(監督デビューを目指しての戦い)1991〜

 第五部 東京奮闘篇(映画監督デビューを目指しての戦い)1997〜

 第六部 東京死闘篇(「ストロベリーフィールズ」を作るための戦い)2001〜

 第七部 東京青空編(「青い青い空」を作るための戦い)2007〜

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 それぞれの時代、いつも目標を決めた。

 高校を卒業するときには

 「東京に行って映画をやるぞ!」

 東京ではなく、横浜になったが、助監督を経験。自主映画活動をやった。

 横浜時代の最後には

 「USCに行って映画の勉強をするぞ!」

 目標通りUSCに合格。映画科で勉強した。

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 LA時代の最後には

 「日本に帰って、映画監督になる!」

 それぞれに5年前後かかっているが、目標は全て達成できた。

 そして今回のLA上映。

 帰国するときに思ったこと。これは5年目標とかではない

 目標というより、夢だったが、

 「LAでも、拍手喝采を受ける映画を作りたい」 

 これも今回。達成することができた・・。

 本当に、あの瞬間。ぐるっぽの皆さんにも見てほしかった。

 「青い青い空」のクレジットが出たとたん、

 割れんがばかりの拍手喝采!

 想像以上の反響だった。

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 代表してfumiさんに見届けてもらった。

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 こうして第七部も、無事にエピローグを迎えたような気がする。

 ただ、いつも「嬉しい!」とか、「ハッピー!」

 という気持ちはあまりない。

 目標を達成したとたんに、次の目標が見えて

 そちらに対する不安が込み上げて来る。

 今まで一度も「うれしい!」とか

 「やったぜー!」と感じたことがない。

 今回も同じだ。

 少しだけ違うのが、「第七部」の終わりというより、

 もっと、もっと長い物語が完結したのではないか?

 そんな感じがしている。

 物語というと「旅」のイメージがあり

 九州を出発。東京が終点的な感じがある。

 だが、マラソンでは、スタート地点から走り出し

 島を一周して、スタート地点がゴールと言うことがある。

 今回、それではないか?

 
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 LAで映画の勉強を始め、東京で監督をめざし、映画を作り

 その作品をLAに持って来て上映。

 スタート地点に戻ってきて、ゴール。

 20年かけた長い長いマラソンを、終えたのではないか?

 そんな気がしてくる・・。

 (つづく)

 
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時代は変る(2)映画監督の厳しい現実 [epilogue]

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 日本へ帰ってからの日々。

 LA初期を越える、厳しいものだった。

 映画監督を目指して、ゼロからのスタート。

 30歳を過ぎてからアルバイト。

 居酒屋の皿洗いとレンタルビデオを掛け持ち

 深夜、アパートに帰ってからシナリオを書いた。

 睡眠時間を削り、体力の限界を感じながら

 半年かかりで書き上げ映画会社に持ち込むと、こういわれた。

 「ああ、そう。アメリカで勉強したの? だから何?」

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 業界で働く友人にはこう言われた。

 「アメリカなんか行かないで、日本でがんばっていれば

 バブルのとき、Vシネマくらい撮れていたんんじゃないか?」

 そう、僕が帰国した年、バブルが弾けたのだ。

 そこから日本は不景気に突入。映画が作りの困難な時代になる。

 その後、シナリオライターとしてデビューするまでに、

 5年かかった。

 監督になるには、さらに2年。

 映画監督になるには、さらに3年。

 そこから映画1本を撮るのに、5年ずつ。

 「青い青い空」が完成したとき、帰国から20年が経っていた。

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 もし、20年前。LAで帰国を決めたとき。

 予言者が現れて、日本で待っていた苦悩の月日を

 伝えられたなら、僕はどうしただろうか?

 そして、LAで上映される作品を監督できるようになるまでには
 
 20年かかると言われたなら・・

 当時の僕は「帰国」という選択をしただろうか?

 億万長者になれるとか、有名人になれるではない。

 映画監督になるのが目標。

 富も名声もなし。日本の映画監督の実情は過酷。

 映画が完成したあと、残るのは借金だけ。

 ハリウッド監督のような億万長者には絶対になれない。

 そんな中で

 「LAで拍手喝采を受ける映画を作る」

 それが、夢のひとつというだけ。

 そのために気の遠くなるような長い長い年月、必要だと言われたら・・?

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 あのままLAにいれはきっと、ハッピーな日々が過ごせたはず。

 少なくても、人生の全てを映画作りに注ぐような生活ではなかった。

 ハッピーなLA生活。過酷な東京生活。

 ただ、もし、それを知っていたとしても、映画作りの道を選んだだろう。


 (つづく)

 
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時代は変る(1)LAに永住しようか? [epilogue]

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 USC映画科での大学生活。終わりに近づいた頃

 考えた。

 LAの生活は楽しい。 東京より安価で快適な暮らし。

 豪華なアパート。安いレント。

 安い物価。豊富な食べ物。映画や音楽を楽しむ機会も多い。

 ストーンズも、ブルースも毎回見れる。

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 もう、英語で困ることは何もない。

 同時に、日本にいては分からない、日本という国の理不尽さ。

 矛盾した習慣やルール、たくさんあることを痛感していた。

 それに比べるとやはり、アメリカは自由の国だ。

 この街で生きて行くのもいいな・・・そう思えていた。

 あるとき、テレビの日本語放送で広告を見る。

 「局スタッフ募集。経験者優遇」

 日本語番組を放送している局。当時はNHKの大河ドラマ

 「必殺シリーズ」「影の軍団」「オレゴンから愛」「ライスカレー」

 等を放送。あと、局製作の情報番組もあり

 LAに来た日本の芸能人の出るインタビュー番組とか制作もする。

 僕は日本で助監督を少々やっていた。現場スタッフはOK。

 その局に就職すれば、LAに住むことができる。

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 当時、聞いた日系人のおじさんの言葉。

 「日本人なら誰でも、普通に働けばアメリカでは成功する。
 
 それほど日本人はよく働くんだよ。だから、日本人が少しがんばれば

 必ず金持ちになれる。だから、日系人は皆、成功しているだろ?」

 確かに・・そうだ。

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 でも、考えた。

 僕の目標は・・映画監督になり、映画を作ること。

 そのためにUSCの映画科を目指し、そこで勉強した。

 「観客を笑わせ、ハラハラさせ、感動させる映画を作りたい!」

 それが僕の夢であり、目的。

 だから、5年間。がんばった。

 アメリカに住むことが夢ではなかった。

 ただ、当時、間もなく・・・30歳。

 日本での再スタートは簡単ではない。

 帰国すれば監督の仕事が待っている・・ということはない。

 LAで勉強したからと、優遇されることはないだろう。

 また、閉塞的で理不尽な日本映画界で、生きることにもなる。

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 でも、厳しいLAの年月を越えてきたのだ。

 それをもう一度やると思えばいい。

 少なくても日本語はできる・・。

 日本で映画監督になり、

 いつか黒澤明や伊丹十三のように
 
 このLAで上映され、拍手喝采を受ける映画を作ろう。

 そう思って帰国。

 だが、日本で待ち受けていたのは、予想を越える厳しい月日だった・・

 
 (つづく)

 
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LA。最終日がスタートする [epilogue]

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 いよいよ、

 5日間に渡るLAの映画祭ツアーも

 最終日を迎える・・・。

 午後には飛行機に乗る。

 真子ちゃん。お勧めの

 ミンティア持って、最後がんばる!

 (つづく)

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タグ:相葉香凛
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