予告編作りで考えたこと(下) [予告編制作]
以上、技法的な細かなことを書いた。
が、一番大切なのは、これだ。
予告編は映画の方向性、テイストを伝えることが最重要。
どんな映画か?分からないようでは意味がない。
では、今回の「青い青い空」がどんな映画か?
を把握せねばならない。
簡単に言えば、「青春もの」「感動ドラマ」だ。
しかし、どんな「青春もの」で、どんな「感動ドラマ」か?を説明せねばならない。
といって、細かくストーリーを語ると時間がかかる。
最小限の映像で、それらを伝えることが大事。
内容以外にも、伝えるべきことがある。
「浜松が舞台」「風景が美しい」「俳優陣が豪華」
これらも「青い青い空」の魅力であり、売りの部分。
それらを全部、ひっくるめて3分弱の予告編にする。
間もなく完成だ!
(つづく)
予告編作りで考えたこと(中) [予告編制作]
今回の予告編。映画館での上映だけではなく
浜松でのイベント等でも流される。
子供からお年寄りまで、広い層が見る機会があるのだ。
それゆえ、若者に受ける感覚的なイメージ優先の予告ではなく、
ストーリー紹介を基本とする従来のタイプにした。
編集テンポも、遅めにする。
若い人にはアップテンポの方がいいが、それでは年配の方が見辛い。
「あれ? 今の松坂慶子さん?」
と思っている内に、次のカットになったりすると伝わらない。
だから、1カット1カットを丁寧に見せる。
あと、音が出せない会場。音が聞き取りにくい場所で流すことも考えて
テロップを多様する。
最近のバラエティ番組のように、テロップで補足するのだ。
さらにいうと、そのテロップも野外で、太陽光の下でも分かるように
はっきりしたフォントを使用する。
それでなくても映像の上に出すテロップ。明朝体等は読みにくいのだ。
そんなことを考えながら、予告を作った。
(つづく)
予告編作りで考えたこと(上) [予告編制作]
昔の予告編は、
映画館で上映されることを前提に作ればよかった。
でも、今はいろんな用途に使われる。
今回でいえば、浜松のイベントでも流される。
野外で、騒がしい場所で、日差しの強い場所で、
いろんなところで流される。
また、音が出せない場所で映像だけ流す場合もある。
観客層も子供からお年寄りまで、いろんな人が見る。
映画館での上映だけなら、ターゲットは若者。
雰囲気やセンスを優先した予告にすべき、
でも、そのタイプでは年配層には分り辛いものとなる。
また、野外では集中して見てもらえないので、感覚的なものは伝わりにくい。
広い会場では、台詞が聞き取れないかもしれない。
従来の映画予告のイメージで作っていては駄目。
今回はいろんなこと。考えた上で、予告を作らねばならない。
(つづく)
予告編作りも、つづく! [予告編制作]
キネコ作業と平行して
予告編作りも進めている。
数分のものでも、何日もかかる。
先にも書いたが単に見せ場を切り出して繋ぐだけでは駄目。
カットとカットを繋ぐことで、意味が出て来ないといけない。
ああでもない。こうでもない。
この方が分かりやすいか? いや、こちらがいいか?
と試行錯誤して作業を続ける。
(つづく)
予告編のあり方(7ー終)黒澤明監督の予告編 [予告編制作]
「天国と地獄」の予告も回想形式だった。
「事件は終わった・・」というナレーションから始まる。
これも何があったんだ!?と興味を惹かれる。
予告編にはいろんな手法がある。
いろんなスタイルがある。
その中でどれを選択し、どのように見せるか?
それが問われる。
さて、今回の「青い青い空」はどうすべきか?
実はもうすでに考えてある。
やはり、オーソドックスなスタイルが一番合うはず。
がんばって編集する!
(この項、了)
予告編のあり方(6)ヒッチコックの予告編 [予告編制作]
伊丹十三監督がモデルにしたのが
アルフレッド・ヒッチコック監督の「サイコ」の予告編。
本人が出て来てベイツモーテルのセットを紹介する。
「ここであの事件が起きます。そしてこのシャワールーム。
おお・・とても口では言えません」
とか、もったえぶった説明する。
そして最後にジャネット・リーが叫ぶカットが入り「サイコ」と出るだけ。
これもなかなかの名作予告。
黒澤明監督が作った予告編もスゴイのがある。
あの「七人の侍」の予告は回想形式だった。
4人の侍の墓のシーンに、
「ここに侍たちが眠っている・・」とかいうナレーションで始まる。
映画本編は回想形式ではないのに、予告は回想形式なのだ。
(つづく)
予告編のあり方(5)スピルバーグの予告編 [予告編制作]
うまいと言えば、スピルバーグの予告編。
「ET」では、ETは手しか見せない。
体も顔も一切見せずに盛り上げる。
「ジョーズ」でもサメは一切見せない。
サメが噛み付くところさえ見せない。
なのに、凄いサスペンス映画であることを伝えてくる。
あれこそが予告編である。
伊丹十三監督の予告編もうまかった。
いつも本人が登場して映画の解説をする。しかし、
ストーリーや内容の説明はなく、映画本編とは関係のないことを話す。
それでいて「今度はどんな映画なんだろう?」と思わせる。
本編以上に次の予告編はどんな手でくるのか? ワクワクしたもの。
このパターンの元になったのが、あの監督の作品だ。
(つづく)
予告編のあり方(4)80年代は酷かった? [予告編制作]
そんなふうに、80年代は「感動シーン」や「ラストシーン」まで
見せてしまう予告編が多かった、
当然、映画館へ行くと「予告で見たやんけ!」ということになり、
憤慨することが多かった。
予告編さえ見なければ、いい映画なのに、名場面を先に見せるので
騙された!ということになるのだ。
当時は「何でもいいから、客を映画館へ来させればいい!」という風潮があったようだ。
でも、そんなことをしていたら、観客が映画不審になる。
いい映画であっても、騙された気になる。
「感動シーン」や「ラストカット」を予告で見せるのは、やはりルール違反だ。
最近は、その種のものはなくなったが、
予告編というのは、本当の見せ場や感動シーンは見せず、
それでいて映画館へ行きたくなる。というのがやはり基本だ。
そのためには技術とセンスが必要。
昔の予告編でうまいものを思い出してみる。
(つづく)
予告編のあり方(3)ルール違反? [予告編制作]
予告を見ずに本編を見たら、感動できたのに・・・
予告を見たばかりに、感動がなくなった。
80年代はそういったものが、結構多かった。
予告編で流れていた印象的なシーンがないもの。
「あのシーンはいつ出てくる?」
と思って楽しみにしていたら
最後まで出て来ない!カットされたシーンを予告で使っていたのだ。
これでは詐欺と言われる。
さらに酷いのは、映画のラストシーンを予告で使ってしまう。
「戦場のメリークリスマス」がそうだった。
ビートたけしがラストに「メリークリスマス。ミスターロレンス」という
鳥肌ものの台詞。予告でも最後に使われていた。
それを見ていると、映画のラストの感動。なくなる。
「何だ、このカットで終わりなの?」
それを予告で見せていたの?と怒りが込み上げる。
(つづく)
予告編のあり方(2)80年代のアメリカ映画 [予告編制作]
同じく、80年代。アメリカ映画では
映画の中身を全く見せずに、興味をそそるタイプが出て来た。
「未知との遭遇」はほとんど、インタビューのみ。本編をほとんど見せない。
スピルバーグやUFO研究家のアランJハイネック博士が
「接近遭遇」について語るもの。
中身が想像できないのに、「見たい!」と思わせた。
「ポルターガイスト」も同じパターンだった。
しかし、80年代から問題のある予告編も出て来た。
名場面をバンバン見せてしまうタイプ。
「復活の日」がそうだった。感動シーンの連続。予告だけで泣ける。
でも、映画本編を見ると、感動場面はすでに予告で見たものばかり。
ありったけの感動シーンを抜き出して、予告を作っていたのだ。
(つづく)