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時代は変る(2)映画監督の厳しい現実 [epilogue]

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 日本へ帰ってからの日々。

 LA初期を越える、厳しいものだった。

 映画監督を目指して、ゼロからのスタート。

 30歳を過ぎてからアルバイト。

 居酒屋の皿洗いとレンタルビデオを掛け持ち

 深夜、アパートに帰ってからシナリオを書いた。

 睡眠時間を削り、体力の限界を感じながら

 半年かかりで書き上げ映画会社に持ち込むと、こういわれた。

 「ああ、そう。アメリカで勉強したの? だから何?」

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 業界で働く友人にはこう言われた。

 「アメリカなんか行かないで、日本でがんばっていれば

 バブルのとき、Vシネマくらい撮れていたんんじゃないか?」

 そう、僕が帰国した年、バブルが弾けたのだ。

 そこから日本は不景気に突入。映画が作りの困難な時代になる。

 その後、シナリオライターとしてデビューするまでに、

 5年かかった。

 監督になるには、さらに2年。

 映画監督になるには、さらに3年。

 そこから映画1本を撮るのに、5年ずつ。

 「青い青い空」が完成したとき、帰国から20年が経っていた。

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 もし、20年前。LAで帰国を決めたとき。

 予言者が現れて、日本で待っていた苦悩の月日を

 伝えられたなら、僕はどうしただろうか?

 そして、LAで上映される作品を監督できるようになるまでには
 
 20年かかると言われたなら・・

 当時の僕は「帰国」という選択をしただろうか?

 億万長者になれるとか、有名人になれるではない。

 映画監督になるのが目標。

 富も名声もなし。日本の映画監督の実情は過酷。

 映画が完成したあと、残るのは借金だけ。

 ハリウッド監督のような億万長者には絶対になれない。

 そんな中で

 「LAで拍手喝采を受ける映画を作る」

 それが、夢のひとつというだけ。

 そのために気の遠くなるような長い長い年月、必要だと言われたら・・?

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 あのままLAにいれはきっと、ハッピーな日々が過ごせたはず。

 少なくても、人生の全てを映画作りに注ぐような生活ではなかった。

 ハッピーなLA生活。過酷な東京生活。

 ただ、もし、それを知っていたとしても、映画作りの道を選んだだろう。


 (つづく)

 
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