USC 南カルフォルニア大学紹介(2) [想い出]
ドヒーニ・ライブラリー。図書館。
映画「卒業」でロケされた。
キャサリン・ロス演じるエレーン。バークレーの大学に通っている設定だが
ロケはここUSCでされた。
ダスティン・ホフマンはこの建物の前の噴水で彼女を待つ。
ちなみに「トラトラトラ」の内幕を描いた本
「黒澤明VSハリウッド」執筆に使われた当時の資料は
ここに貯蔵されていたらしい。
ビックリだ。
(つづく)
USC 南カルフォルニア大学紹介(1) [想い出]
USCは映画科が有名だが、
デンタルとビジネスも有名。
ロサンゼルスの歯科医の半分以上がここの卒業生だ。
日本でいえば、慶応大学といった感じの大学。
私立でおぼっちゃまが多い。
その中で一番貧しいのが映画科の生徒だと言われる。
UCLAとはライバル校。
慶応と早稲田の関係に近く、早慶戦と同じように
アメリカンフットボールでもライバル。
写真上。ボバードと呼ばれる建物。
大教室として使われる。映画科の授業でも何度か通った。
「24」のシーズン3だったかで、
パーマー大統領が討論会をする会場として使用。
ロケが行われた。
(つづく)
友人の話(4ー終) [想い出]
林田堅太。1976年生まれ。享年32歳。
デビュー作であり、遺作になった映画は「ブリュレ」
それはないだろう? なんで彼が・・
葬儀。彼の遺影を前に話かけた。
「林田。お前がデビュー作を遺作にして、どうするんだ?
それはオレの専売特許だぞ・・・それに、お前の方が若いんだぞ。
まだ、32歳だろ・・。先に逝ってどうする?
太田映画を引き継いでくれるのは、お前だろ?
・・・・・でも、必ず、次回作。完成させるから。
遺作になって、すぐにお前に会うことになるかも
しれないけど。必ず完成させる。
林田の分もがんばる。絶対に諦めない。
そして完成と公開、報告するからな・・・
餃子を食べながら、報告するからな・・」
それが2008年の11月のことだった。
昨年の11月で、ちょうど2年。
林田が住んでいたアパートの下まで行く。
見上げると彼の部屋が見える・・。
今も空き室のまま。
その下にある中華料理屋へ。何度も林田と来た店だ。
ビールを二杯と餃子を一皿、注文。
一杯は彼の分。そして林田に報告。
「あれから2年かかったけど、次回作。完成したよ。
「青い青い空」というタイトルだ。
先月公開されて、浜松でヒットしている。
お前にも見せたかったなあ。
今回は若い子。誰も死なないんだけど、また泣けるぞ。
・・・林田が見たらまた・・・号泣するぞ。
そして、今回は遺作にはしない。
お前の分も・・・・映画・・・
撮り続ける・・
・・・・・・乾杯・・・」
http://www.movie-highway.com/topics/2009/08/25/001860.php
友人の話(3) [想い出]
その話。友人にもした。
「『ストロベリーフィールズ』を作ったとき。これが完成したら死んでもいい。
マキのように死神に連れて行かれてもいい。そう思って作った。
でも、完成したら、悔いが多くて、まだ死ねないと思って、
遺作は次回作にしたんだ。
完成したら今度こそ死ぬかもしれないから
あとを頼むな?」
そういうと友人は笑えないという顔。
「何言ってんですか? 太田さんには次回作だけでなく、
その次も、その次も、作ってもらわなきゃ駄目ですから!」
あとで先輩に聞くと、こういわれた。
「あいつも太田と同じで大変なんだよ。
映画作るために何百万も借金して
それを返すために、撮影中断。金ためてまた撮影。
でも、太田はあいつの前を走っている。
同じスタイルで本当に撮りたい映画を撮り
完成させ、公開し、評価された。
お前の存在が、どれだけあいつを支えているか?
だから、お前も諦めるな!
後ろから着いて来る後輩がいるんだぞ!」
そう言われた。
次回作。必ず形にせねば・・。
その次回作が「青い青い空」
結局、さらに2年かかって4年越しで完成。
浜松で先行公開。大ヒットした。
そのこと。友人に報告せねばならない。
しかし、直接、報告することはもうできなかった。
彼は監督デビュー作が公開された直後に、
この世を去っている。
監督デビュー作が「遺作」となっていた・・。
(つづく)
友人の話(2) [想い出]
でも、デビュー作の公開を控えた若い友人の前で、
弱気なところは見せられない。
僕も・・がんばらねば・・・・。
やがて、彼の映画は公開。劇場で見た。
女子高生が死んで行く物語。美しくも悲しいストーリー。
どうしても形にしたい映画だったという。
というのも、彼が幼いとき。
高校生だった姉が、交通事故で亡くなっていた・・。
その思いを映画に込めていたのだ。
だからきっと「ストロベリー」を見たとき号泣したのだろう。
クライマックスのマキ(谷村美月)の台詞が胸に刺さった。
「夏美。お前は死ぬなよ。オレの分も長生きするんだぞ!」
そして台詞にはないが、こう聴こえたはずだ。
「そして必ず映画を完成させて、みんなに見てもらうんだぞ!
諦めちゃ駄目だぞ!」
きっと、お姉さんが激励してくれている声が聴こえたはず。
彼の映画を見ると「ストロベリー」と重なる部分がたくさんあり、
ああ、同じ思いで映画を作っているんだ・・と痛感した。
「ストロベリー」は死んだ誰かではないが、
去って行った友達をモデルにしている。
映画監督になりたい友人。
ミュージシャンを目指した友達。
俳優を夢見た仲間。
横浜にいた頃。まわりにそんな友人がいた。
僕も映画監督を目指していて、彼らと自主映画を作っていた。
しかし、友人たちは次第に夢破れて、横浜を去って行く。
そんな中の1人。こういった。
「俺たちはもう駄目だけど・・夢破れて、もう駄目だけど、
太田にはがんばってほしい・・・。
お前なら必ず監督になれるよ・・・。
お前が作った8ミリ映画を見ても、センス感じる。
だから、必ず、監督になってくれ!
オレたちの分も、がんばってほしい・・」
そのときの言葉を「ストロベリー」のマキ(谷村美月)の台詞にした。
僕が夢破れた友人たちの想い出を「ストロベリー」に託したように
その友人は死んだ姉への思いを、自作に託したのだ。
作り事ではない「思い」は、
その事実を知らなくても観客の胸を打つ。
僕も負けてはいられない。
次回作「青い青い空」が完成すれば・・・死んでもいい・・。
遺作になってもいい・・。
そう思いながら、何もできない自分がいた・・。
(つづく)
友人の話(1) [想い出]
「青い青い空」の3ヶ月を超えるロングラン。
観客動員2万人。
その大ヒットを報告したい若い友人がいる。
脚本家の先輩が主催の飲み会で知り合った。
「こいつは太田の映画、絶対に好きになるよ!
太田も『ストロベリーフィールズ』を5年かけて完成させたけど、
こいつも4年かけて映画撮ったんだよ」
何だか似たようなことをしているらしい。
そう紹介された彼は、大阪出身。
僕は和歌山生まれの、大阪育ち。
関西のノリで盛り上がった。
そして、僕がお世話になった脚本家の先生に
彼もお世話になっている。
おまけに僕のアパートの近所に住んでいた。
何だか長い付き合いになりそうだ。
間もなく公開になった僕の「ストロベリーフィールズ」を見てくれた。
最後列の席から見ていても分かるくらいに
彼は号泣。ボロボロに泣いていた。
「太田さんは関西人のノリなので、笑える映画かと思ったら
あんな悲しい泣ける映画を作る人とは思わなかった。
人は見かけによらないですね?」
褒めているのか、けなしているのか分からない。
でも、もの凄く感動したという。
家が近所ということもあり、
駅近所の彼のアパートの前を通ると電話。
「今、下にいるけど、飲みに行かない?」
と言って、中華料理屋で餃子を食べた。
それ以来「餃子食べに行こう!」が合い言葉となる。
「そろそろ、餃子はどうですか?」
年賀状にまで、そう書いて来る。
あるとき、彼から相談を受けた。
「4年がかりで作った監督デビュー作。完成して、間もなく公開になります。
でも、予算がなくて宣伝をどうすればいいか?
相談に乗ってほしいんです」
僕は「ストロベリーフィールズ」のときも、和歌山&東京で宣伝活動をした。
お金をかけずに宣伝するのは得意だ。
そのとき、こんなことを言われた。
「太田さんの新作はいつ頃、見れそうですか?
お世辞じゃなくて本当に期待しているんです」
4年がかりで完成することになる『青い青い空』
一番、辛かった時期で、全てがストップしていた。
希望が見えない時期だった・・。
(つづく)
ジョンレノンと「ストロベリーフィールズ」 [想い出]
ジョン・レノンの命日の話を書いたら
「そういえば前作のタイトルは『ストロベリーフィールズ』でしたね?」
とブログに書いてくれた人がいる。
そう。あのタイトルはそこから来ている。
中学生時代。毎日、聴いていたのがビートルズ。
で、どちらかというと、ポールよりジョンが好き。
そんなことで「ジョンの魂」や「イマジン」はLPを持っていた。
『ストロベリーフィールズ』は主人公たちが皆、いちごが好きという設定。
昔、『ふぞろいの林檎たち』という大学生のドラマがあったので
例えれば、こちらは『ふぞろいの苺たち』だなと思えた。
また、女子高校生を例えると、まさにイチゴ。
可愛くて、小さいけど、決して甘くはなく、すっぱい。
そして、ぶつけるとすぐに腐ってしまう。
そんなイチゴたちを主人公にした田舎の話。
田舎といえば、田んぼや畑。畑は英語で「フィールズ」
(そういえば浜松もいちごの産地であり、ストロベリーフィールズなのだ)
そう考えていて、ジョンレノンがビートルズ時代に作った歌
「ストロベリーフィールズ・フォーエバー」を思い出した。
(つづく)
12月8日とジョンレノン(下) [想い出]
1980年、12月8日。
仲間と撮っていた学生映画がクランクアップ。
タイトルは「ロックンロール破壊部隊」
近未来。ロック音楽が禁止された世界が部隊のドラマ。
ビートルズの音楽も使っていた。
その撮影が終わった翌日、ジョンが殺された。
何だか、恩師が死んだような気持ちで
大切な友人がいなくなった思いで、
仲間たちも言葉を失い。
その日は遺作となったアルバム「ダブルファンタジー」を
繰り返し聴いた。あれから30年。
今回の映画「青い青い空」の主題歌。
僕のイメージは、ジョンレノンの「イマジン」だった。
あべさとえちゃん、見事な歌詞にしてくれた。
ジョンが生きていれば、今年で70歳になる。
12月8日とジョンレノン(上) [想い出]
昨日は12月8日だった。
何の日?と聞かれると
世界史では真珠湾奇襲の日だ。
でも、僕らの世代にとっては
ジョンレノンの命日である。
今からちょうど30年前。
元ビートルズのジョンレノンは、ニューヨークの自宅
ダコタアパートメントの前で射殺された。
そのニュースを僕が聞いたのは、横浜の友人のアパート。
前日まで友人たちと、学生映画の撮影をしていた・・。
「1」が4つ並んだ日から4年。 [想い出]
今日は11月11日。
今からちょうど4年前の今日。
僕の前作「ストロベリーフィールズ」の凱旋上映会
ロケ地の和歌山県で行われた。
春に地元公開。大ヒット。秋に東京公開。
和歌山、大阪、名古屋、札幌、福井での公開を終えて
地元での公開終了後。半年も経ってからだ。
すでに数千人の観客が
「ストロベリーフィールズ」を見ている。
それにも関わらず、1200人もの人が
凱旋上映に来てくれた。
それもほとんどの人が初見。
公開されたあとも、「ストロベリー」は噂となり
「感動できる」「泣ける」「地元の風景が美しい」
と評判になっていたという。
で、半年以上も経つのに、「映画を見たい!」という人
どんどん増えていて、
結果。1200人が1回の上映で集まったのだ。
映画監督として、こんな嬉しいことはない。
今回の「青い青い空」も、東京、大阪公開後に
もう一度、浜松で凱旋上映できる機会
あるといいな・・。
11月11日物語=>http://takafumiota08.blog.so-net.ne.jp/2009-11-13-1
つづき=>http://takafumiota08.blog.so-net.ne.jp/2009-11-15-5