後輩監督を悼んで(5)遺作 [日々報告2008]
映画葬のあと、彼の友人や先輩たちと、朝まで渋谷の街を飲み歩いた。林田君の映画学校時代の同級生や後輩と、朝まで彼と彼の映画について話し続けた。
結局、2年もいろいろと応援し、アドバイスし、公開を楽しみにしていた「ブリュレ」。その感想を彼に伝えることはできなかった。
こんなことなら、もっと、もっと、僕の経験を話し、宣伝にプラスになることしたかった・・。
友人や同級生と話していて、訃報を聞いて林田君の部屋を訪ねた日のこと。思い出す。近所に住んでいたので、彼のアパートまでは15分。5階の部屋に上がる途中、片付けが始まっている荷物が置かれていた。
映画の小道具である松葉杖や警察車両用のサイレン。そして膨大な本とビデオテープ。部屋に入ると、友人たちが集まり片付けが始まっていた。
積み上げられたビデオ。その一番上。「ストロベリ-フィールズ」のDVD。以前にプレゼントしたものだ。捨てずにちゃんと、持っていてくれたのか・・。
彼とは共通点が多い。シナリオライターとしてスタート、メイキング監督、大阪出身(僕は和歌山だが、長らく彼の故郷の隣町に住んでいたことがある)自主映画活動、女子高生が主人公で死を描いた物語。映画学校で習った先生も同じ。
そして僕が、自身で製作費を集め「ストロベリーフィールズ」を完成させたように、林田も自分で製作費を作り「ブリュレ」を作り上げた。僕が歩んで来た道を振り返ると、そこに彼がいるという感じ。
しかし、自分で映画を作るというのは本当に過酷。様々な壁があり、危機があり、問題が頻発する。大きな経済的な負担をがあり、食うや食わずになったり。なのに邪魔をしたり、足を引っ張る輩が出て来る、金目当てに近づく奴もいる。
数々の圧力や壁に押しつぶされて、諦めそうになる。それでなくても、プロデュサー業、脚本、監督、編集と、1人で何人分もこなすのは重労働。
僕も、心と体もボロボロになった。何度も過労でダウンして寝たきりになった。病院へ行くと、医者に言われる。
「君ねえ。過労を甘く見たらダメだよ。本当に死ぬからね? 休まないとダメだよ。仕事ばかりしていると、本当に死ぬよ。少なくても1ヶ月は仕事せずに安静にして休養を取るように!」
医者の指示を守らなくても、動けなくなり、寝たきりになる。3ヶ月近く起きらなかったときもある。そんなことを何度も繰り返して、撮影まで辿り着く。東京公開が始まる前にも倒れた。
もし、あのとき死んでいたら・・・。そのあとの光景が、彼のアパートで現実のものとなっていた。もし、僕が過労死していたら、同じように友人たちがアパートに来て、部屋を整理してくれたのだろうか・・・。
林田君も、同じようにボロボロになりながら、公開まで辿り着いはず。他人事とは思えない。そんな思いをして作り上げた作品が、「ブリュレ」なのである・・.
(つづく)